英語英文学科4年 川口 ひな

オマーンのスルタンカブース大学にて
はじめに
中東は遠い場所だと思っていました。
誰よりも関心を持ってきたつもりでした。
でも、そこにいる誰かの顔を、私は具体的に思い浮かべることができませんでした。
「終わったかにみえる紛争も、その火種は燻り続け、何かの拍子に再燃する危険性をはらんでいる。」
この言葉は、私がジャーナリストという職業を夢見るきっかけにもなった山本美香さんの著書『僕の村は戦場だった』にある一文です。
アイルランド留学で、北アイルランド問題に触れたとき、彼女の言葉が実像を伴って私に迫ってきました。「終わっていない過去」が日常に潜む現実を目の当たりにして、確信しました。過去、そして現在も紛争と隣り合わせにある中東では、どれほど深く、誰かの日常が蝕まれていることだろうか。
2025年12月の東京での学生交流から始まり、2026年2月の現地渡航へと続く、笹川平和財団の「イラン短期研修代替・周辺国理解促進プログラム」の一員として、私は初めて中東の地、オマーンとカタールに足を踏み入れました。
ヒジャブの下
「1月にテヘランで会おう。」
情勢悪化によりイラン渡航が中止となり、研修先がカタールとオマーンへ変更になることなど予期していなかった2025年12月。まずはプログラムの第一段階として、イラン外務省付属のイラン国際関係学院(SIR)の学生たちが日本を訪れていました。私たちがイランへ渡航し、現地で再会することを前提に始まった交流でした。
学生訪日の三日目、私たちはお台場でショッピングをしました。私が同行したのは、イランの女学生二人組で、それまで一度も言葉を交わしていませんでした。しかし、同年代の女性ということもあり、日本のメイク用品を選びながら、三人で笑いが絶えませんでした。
ショッピング中、急に二人組の一人が、黒いヒジャブを外して、美しい栗色の髪の毛をさらけ出しました。私が髪の毛を褒めると、彼女は「あなたの目が美しいからよ。イランでは、タアーロフと言うの。」とはにかみました。(タアーロフ=イラン特有の謙遜や相手を立てる文化のこと) イラン人の男子学生が不意に現れると、彼女は急いでヒジャブを被り直しました。
イランの学生と関わる中で、ヒジャブが単なる抑圧ではないことを思い知らされました。だから、一概にヒジャブを脱ぐことが正義だとは思いません。ただ、もしも規範というものが権利や自由を抑圧して成り立っているとしたら?
彼女がヒジャブを被り直した時、私たちの間に透明で分厚い壁がすとんと落ちてきたような感覚に陥りました。さっきまで日本のコスメを手に、全く変わらない同世代の女性として笑いあっていたはずなのに、私は言葉にできない寂しさを覚えました。
無言のパネル
2月7日。ドーハの人工島に位置する五つ星ホテルで、アルジャジーラ・フォーラムは各国の要人、ジャーナリスト、研究者を招き、ガザの和平とアラブ諸国の役割をめぐって議論が交わされました。会場の入口に並ぶ、ガザで命を落とした記者たちのパネル。豪華なホテルのライトに照らされながら、彼らは無言の重みを持って立っていました。中には、私たちと年齢が変わらない若年記者の顔もありました。
フォーラムが終わって、数日前に訪問したアルジャジーラでお世話になったジャーナリストの重信メイさんと再会し、紛争地でのジャーナリズムの意義について尋ねました。彼女は、「良い質問ですね」と笑顔を見せ、自身の取材経験や訓練経験を織り交ぜながら、「何かが起きていないと行かない。伝えたいと思ったジャーナリストを誰も止められない」と答えました。
ガザで命を落とした同世代の記者は、一体何を伝えたかったのだろう?
会場を出る時、私は数十秒間、パネルの前から動けませんでした。人生で初めて経験する会場の厳かな雰囲気の中で、重信さんとの対話から見えてきたジャーナリストの姿。前向きな自分と、足がすくむ自分が胸の中で衝突していました。

ガザで命を落とした記者のパネル

アルジャジーラ生中継の視察
痛みと美しさのあいだで
オマーンの国立博物館やドーハのイスラム美術館、そしてスークで目にした情景や出会った人々の温もり。一緒に折り鶴を折ったオマーンの学生、突如アラビア語の勉強会をしてくださったスークの愉快な店主。それらは、遠い場所だと思っていた中東を、地続きの場所へと塗り替えました
同じ人間の痛みや美しさに対して鈍感でありたくない。
この信念は、私の根幹にあります。イラン、オマーン、カタールが持つ固有の文化や生活、繰り返される悲劇とその奥にある人々の存在に長年関心を抱いてきたからこそ、この研修が自分の中にあった信念に顔を与えました。
「伝えたいと思ったジャーナリストを誰も止められない。」
中東に関するニュースを見るたび、多くの人の顔が思い浮かぶようになった今、この言葉が、もう他人事ではありません。

スルタンカブース大学での現地学生との交流

オマーンのマトラスーク
最後に
イランへの研修予定が頓挫する原因となった、イラン全土での抗議デモ。
研修が終わって約3週間後、2月28日に起きた、アメリカとイスラエルによるイランへの攻撃。
体制に怒る市民がいる一方、戦争が勃発後、再会を信じて笑いあったSIRの学生の一人から一通のメッセージが届きました。
「彼らが全員死ぬか、私たちが全員死ぬかだ。」
あの日選んだ日本のアイカラーは、今も彼女の目元を彩っているのだろうか。笑いあった記憶が、戦火のニュースによって一瞬で塗りつぶされていきました。
研修の最終日のドーハで、私は一人になるためにホテルの外へ出ました。そこで偶然、同じホテルに泊まっていたパレスチナ人の男性と言葉を交わしました。勇気を出して現在の状況について尋ねると、彼はこう言いました。
「家で寝ているとき、急にドアを壊されて、部屋の中へ入ってきて、追い出されることを想像してごらん。」
私はまだ、彼らの言葉の意味を簡単に理解したくないと思いました。


