「私の出会ったアラスカ」
アラスカとの出会い
宮城県で生まれ、岩手県で育った、青森県と山形県のハーフ、生粋の東北人の私。人生で、そこへまだ一度もいったことがないのに、なんとなく行く前から「あぁ、いずれ私はここへ訪れることになるだろう」と予感していた場所、それが私にとってアラスカでした。36歳という若さで膵臓ガンでこの世を去った祖父が、憧れていた場所だったと母に繰り返し聞かされていたからでしょうか。変わり者で本しか友達のいなかった小学生の頃、“呼ばれて”手に取った一冊の作者が自分の生まれた1996年にアラスカでクマの事故で亡くなったことが記憶に残ったのでしょうか。それとも故郷を襲った津波によって流されたサッカーボールがアラスカで発見されたというニュースを見たからでしょうか。アラスカのことを考えるとき、いつも“お前の今の生き方に後悔はないのか”と問いかけられているような気がしていました。まさか自分でもこんなに早く、大学時代にアラスカに行くなんて思っていませんでした。自分にとって大切な場所だからこそ、なんとなく最後まで楽しみを取っておきたかったのですが、大学の友だちに「え、じゃあ先に行ってきてもいい?」と言われ、それはなんかやだな……と思ったのが重い腰をあげたきっかけでした。津田塾の友人に今は感謝でいっぱいです。
行くと決めてからは早かったです。今ではよくやったなと自分でも思いますが、三年生から日本語教員養成課程の授業をフルに取り、日本語教員になるための勉強をひたすらしました。でもアラスカで教えるという目標が定まっていたので、どの授業も1年後には全てフィールドで役に立つと考えると全く苦ではありません、むしろ毎日大学に行くのが楽しみになっていました。実際に、どれくらい学んだことをそのままの形でアウトプットできたかはわかりませんが、学びを糧に現場に出るというプロセスを踏むことで、心の準備や先生として派遣される責任感、早く現場で教えたいという気持ちになれました。実際に、クラスの子供の名前50人をすぐ覚え、クラスに馴染めたのもこのような学校での学びがあったからこそではないかと今は思います。
Life is what happens to you while you are making other plans.
母子家庭で大学の奨学金も借りている自分にとって、留学資金を稼ぐことは大変なことでした。寒い日も暑い日も必死で働くんですが、暑い日は“もう少しで涼しいアラスカにいける”と自分を励まし、寒い日は“こんな寒さでへばっているようではアラスカに行く資格はない!”と自分を鼓舞しました。アラスカで1年間日本語の小学校教員として働けるインターンシップを見つけ、応募して合格しました。そして頑張っているといいパスが回ってくるもので、官民協働のトビタテ留学JAPANの奨学金の存在を、締め切りの10日前に知り応募しました。自身で留学プロジェクトを作り、それをプレゼンテーションし選ばれると日本代表として奨学金も貰えるとのことで応募し、合格することができました。
留学内容としては、「食×防災でかける橋 揺レニモ負ケズ、冬ノ寒サニモ負ケヌ、丈夫ナ食道トナレ!」とし、小学生と大学生の未来を担う世代に食というツールを用いて防災意識向上を目指すプレゼンテーションやワークショップを開くというものでした。トビタテ留学JAPANの活動があったからこそ、今回のアラスカでの時間が唯一無二の経験となりました。そのぶん多くの困難にぶつかり苦しかったですが。置かれた場所で咲こうとする応用力、自分で何事もやってみる行動力、人を巻き込む力が付きました。アラスカで大変だったことはあげるとキリがないのですが、一番大変だったことは、トビタテのプロジェクトを行うにあたり、予想していた対象年齢と、実際に自分が派遣された学年に大きな違いがあり小学校2年生は“地震ってなんだろう”“日本はどこだろう”“まず自分の住んでいる町はどこだっけ”など、まだ基礎的な自分以外のこともままならない状態で滑り出しは本当に不安になりました。また、実際にアラスカに派遣中に自身の住むアラスカ州アンカレッジ市でマグニチュード7.3の地震が発生し学校機関が大きなダメージを受けました。生徒の中にはトラウマで吐いたり、余震でパニックになる子供もいて、防災の大切さを日本代表として伝えるどころか無力感を感じてしばらく落ちこみました。
でもそんな時、私を救ってくれたのは生徒たちの存在で、彼・彼女らの多くが2011年、あの東日本大震災の年に生まれました。そのことに気がついた時は、ハッとさせられました。大好きな東北とアラスカ二つの故郷を災害から守りたいという気持ちがまた走り出す原動力になりました。
世のために尽くした人の一生ほど、美しいものはない
アラスカでは週5日8:50〜15:30まで、小学校の先生としてアラスカで日本語イマージョン教育を行うサンドレイク小学校の2年生に教えていました。私はお世辞にも優等生とは言えず、むしろ学校が苦手なタイプでした。(新聞記事 1)この新聞記事は高校生の時に一橋文芸読書体験記コンクールという賞をいただいた時のものです。私は教師になりたいなんて一度も思ったことなんてないのに、『教師になるそうです』と載っていて、後でこの記事を読んで自分自身で「え!?」と驚いてしまいました。でもこの記事の4年後にはアラスカで教師をしていました。スティーブジョブズ氏の残した有名な言葉に “Connecting dots”という言葉がありますが、多くの過去に点在する点が現在につながっていることを最近よく実感じます。そんな自分が将来絶対になることはないと思っていた“先生”を実際にしてみて、今まで悩んでいたことがちっぽけで馬鹿らしくなりました。特に、先生も大人もただの人間で、完璧な人間なんていないことに気がついたのは教師をやってみて良かったことの一つです。
また、アラスカでの出会いにモンゴメリーディクソン氏との出会いがありました。モンティさんの愛称で親しまれる彼は、アラスカ大学アンカレッジ校の生徒さんで、JETプログラムでALTとして岩手県の陸前高田市に派遣されていましたが、2011年3月11日に発生した東日本大震災の津波により戻らぬ人となりました。そのモンティさんを愛したたくさんのひとからお話を聞くことができ、私はモンティさんとアラスカで出会えた気がしました。アラスカから帰国後、今後、自分がどのようにすすんで行くべきか迷った時、モンティさんが津波で無くなる日の朝、訳していた司馬遼太郎の『洪庵のたいまつ』のフレーズに背中を押されました。“世のために尽くしたひとの一生ほど、美しいものはない”私も、自分の学びや経験を自分の内部にとどめておくのではなく、広く還元したいと考えるようになりました。その一番の還元先は、自身の愛する東北でありたいです。まず自分にできることから始めようと、アラスカでの体験を文章にし、岩手日報へ寄稿し、2度採用していただきました。(新聞記事 2)思った以上に反応が良く、エールを返信する形でわざわざ私宛に、寄稿してくださった方もいました。
アラスカでの経験が今すぐに自分の糧になるか、もしかするとその芽が何年後かになんらかの形で発芽し、やがて花になるか、それがいつか今はわかりません。しかし、遠く将来を見つめた時に振り返り、ああやっぱりあの時頑張っていて良かったと思えるよう、今を丁寧に生きたいです。こんなふうに考えられるようになったのは、アラスカで出会った全てのひとびとと美しい自然、そしていままで関わってきた全ての人たちのおかげです。感謝を還元しながら前進していきたいです。
- この記事は岩手日報社の許諾を得て転載しています。